alexander’s journey fethiye turkey アレクサンドロス大王の旅
前4世紀、アレクサンドロス大王はペルシア討伐に出発
中東を経てからインドにいたる旅を21世紀に歩きます
前334年 秋。
ハリカルナッソス(現ボドルム)を攻略したアレクサンドロス大王は、次にリュキアを目指しました。
リュキアとは小アジア南西部の地中海沿いの古代地名です。
ミレトスにてギリシア艦隊を解散したマケドニア軍は、地中海沿いの諸都市を攻略することで、ペルシア艦隊の補給を絶つ作戦でした。
リュキアは背後に険しい山脈が迫っているため、陸上交通が困難で海路に長けた人々の独特な文化圏です。
タウロス山脈:
リュキアの山地はベイ山脈と呼ばれ、トルコ地中海沿いを東西に連なるトロス山脈の支脈に数えられます。トロスの古代名はタウロスといい、「東征記」にたびたび登場します。
アレクサンドロス時代の地理観では、タウロス山脈は東のユーフラテスやチグリス源流部、さらにイランのザグロスとエルブルズの両山脈、そしてインド(現パキスタン)のヒンドゥクシュ山脈さえも延長であると考えていました。確かに地図を俯瞰すると、これら山脈は東西に繋がっており、古代の地理観も荒唐無稽ともいえません。
さて「東征記」には、『テルメッソス人を降伏させ味方につけた』と簡単な記録が残っているだけですが、アレクサンドロスは有名なテルメッソスの占いを受けたようです。テルメッソスの占いは、ギリシア世界に広く知られており、占い師の学校まであったそうです。
古代テルメッソスとは現フェティエで、人口17万のリュキア地方最大の都市です。
険しいリアス式海岸の、フェティエ湾の奥に位置し、赤屋根で統一された街並と紺碧の地中海がコントラストをなす美しい景観です。
古代テルメッソスの遺構として、市内に小円形劇場があります。劇場からは往時と同じ美しい港が見えて、おそらくアレクサンドロスの見た景色に近いかもしれません。
フェティエの最大の見物は、町の背後の山腹にある古代の岩窟墓群です。
フェティエ湾南東の岬の中腹に不思議な磨崖墓が並んでいます。正面には木造風の柱と梁が彫刻されており、リュキア墓のひとつの定形となっています。
さらにきつい坂道を登ると、並外れて大きな岩窟墓がそびえています。
墓の側面にギリシア語で「Amyntou tou Ermagiou」とあることから、通称「アミュンタス墓」と呼ばれています。しかし一説では文字の多くは後世のものといわれ、正確には誰の墓なのか分かっていません。
アミュンタス墓のサイズを調べたのですがまったくデータが見当たらず、目測で恐縮ですが高さ6~8mほど、と記しておきます。この岩窟墓は大きさだけではなく、正面外観の意匠も凝っており、まるでギリシア神殿のような形状です。
これら岩窟墓の正確な年代は不明ですが、紀元前4世紀の中頃と言われています。したがってアレクサンドロスも当時は真新しい墓を見た可能性があります。
これら岩窟墓の類似例として、アケメネス朝ペルシアの磨崖王墓や、ヨルダンのペトラなどナバティア人の岩窟墓が挙げられますが定説には至っていません。
アレクサンドロスの旅は、知名度が低くても、このような唯一無二の遺跡に案内してくれます。リュキアもまさにそうした場所で、「東征記」にあまり拘らず寄り道をして紹介したいと思います。
次はマケドニア軍が攻略した都市クサントスに向かいます。
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参照「図説アレクサンドロス大王」森谷公俊 /鈴木革 「アレクサンドロス大王東征記」アッリアノス