travel zimbabwe great zimbabwe 2
前回(previous)に続き「アクロポリス」と「谷の遺跡」を紹介します。
アクロポリス Acropolis/Hill complex
上写真:「谷の遺跡」付近から見上げるアクロポリス 花崗岩の岩山
大神殿の北約600mに高さ120mの花崗岩の丘があり、頂上に築かれた複合建築をアクロポリスと呼んでいます。
低い丘ですが登りルートは少しスリリングです。ときに巨岩が立ち塞がり、狭い通路に小階段があったりして、なにか日本の聖山でも見たような不思議な光景に出会います。
丘上には怪しげな巨石がごろごろしており、それを繋ぐように石ブロック壁が積まれ、大きな囲壁が造られています。アクロポリスは大きく「西囲壁、West Enclosure」「東囲壁、East Enclosure」に分かれ、それに円形構造が入り組んでいます。
石壁のくぐり戸を抜けて上部の巨岩エリアに入ると、絡み合う大きな石が歪な空間を造っており、その最上部に小さな聖所があります。明らかに巨石信仰の核心部です。
ジンバブエに限らず、アフリカでは巨石信仰が多く見られます。しかしそれは日本でも同じで、巨石信仰の場所は枚挙にいとまがありません。巨石・巨岩に対する畏れは、時空を超えた人類原初の感覚ではないでしょうか?
谷の遺跡 Valley’s Ruins
大神殿とアクロポリスの間にある谷の住居跡です。遺構は花崗岩ブロックを積んだ円形建築の集合ですが、個々の建物が小さく崩壊も進んでおり目立った建築物はありません。
ただ壊れた分だけ「物の哀れ」が漂い、それが最大の見どころともいえます。しかも植物の侵食が激しくて、それも日本では見られない巨大な多肉植物が多く、見たことのない怪しさに溢れています。
古代遺跡の「諸行無常」をそのまま景色にしたような、写真的には絶好の場所かもしれません。
インド洋交易
前回、中国やインドとの関係について少し触れましたが、実は大ジンバブエはインド洋の外港ソファラ(現モザンビーク)を介して、原産である金製品を主に活発な海上交易を行っていました。
交易の時期については諸説ありますが、最大で紀元9世紀まで遡るようです。有名なバスコ・ダ・ガマがアフリカ喜望峰を回ってインドに到達したのが15世紀末でしたから、少なくとも数百年も前からアフリカ~アジアの交流があったのです。
この背景にはインド洋で活躍したイスラム商人はじめ、インド、中国の冒険家がいました。有名な鄭和(中国の明の武将)はマラッカ海峡を越えてインド、アラビアに到達しました。なんと別動隊は、アフリカの現ソマリアまで至っています。
日本では少しマイナーですが、モロッコ出身の旅行家イブン・バットゥータは、陸路で中東、インドを越えて中国に至り、海路ではアフリカの現タンザニアまで到達しています。
鄭和はバスコ・ダ・ガマの約百年前、イブン・バットゥータは約150年前に大旅行を成し遂げています。おそらくバスコ・ダ・ガマの快挙も、こうした先人たちの海洋ルートを土台にした金字塔です。
アフリカ内陸にある遺跡で、壮大な「海のシルクロード」を知ったことは意外でした。前回「シバの女王伝説」でも触れましたが、西洋人の世界史観に影響された我々は、いわゆる「途上国」の歴史に疎すぎるのではないでしょうか。しかし実際はこうした偉大な遺産に驚き、様々な発見があります。
アクロポリスからは大神殿はじめ、周囲の景色が360度に広がっており、飽きることなく眺めつづけていられます。
実はこの絶景は、世界最古の地殻(アフリカ楯状地)の花崗岩大地で、およそ30億年という時間が造った形です。したがってこの場所は地球史と人類史の交差点であり、それぞれのエッセンスが織りなした奇跡の絶景なのではないでしょうか?
当Webサイトに掲載された文章や画像の無断転載を禁止いたします。