alexander’s journey troy turkey アレクサンドロス大王の旅
前4世紀、アレクサンドロス大王はペルシア討伐に出発
中東を経てからインドにいたる旅を21世紀に歩きます
前334年5月。
アレクサンドロス大王は小隊とともに、ケルソネソス半島(現ゲリボル半島)南端から対岸アジアのトロイを目指しました。トロイはホメロスの叙事詩『イリアス』が伝える戦争の舞台で、巨大な木馬に兵隊が隠れて敵地へ潜入した奇襲戦、すなわち「トロイの木馬」で有名な場所です。
しかもその伝説をもとに、1871年にドイツのシュリーマンが発掘を開始して、実際に都市跡を発見したという「伝説的な考古学史」、つまり伝説だらけの遺跡です。
少年期の大王は、恩師である有名なアリストテレスから、アリストテレス自身による『イリアス』の校訂本を授かり、『短剣とともに枕の下に置いた』というほど愛読したようです。なかでも物語の勇者アキレウスの熱狂的な心棒者であり、自らをアキレウスに重ねていたようです。
そのため本隊にはエジェアバトの渡し場を使用させたのに、大王自身は半島先端まで進み、アジアの第一歩としてトロイを目指したのは、おそらくアキレウスに対する強い思いがあったためです。
ちなみに『イリアス』では戦闘や戦死の場面描写が鮮明で、古の戦士たちが「武勲を残す戦死」を最高の美学としていたことが伺えます。これは東征における大王やマケドニア軍の行動にも重なり、『イリアス』はまさにバイブルだったのです。
ピストン輸送のフェリーは、狭いダーダネルス海峡では瞬く間に対岸に到着します。
何事につけ大雑把なお国柄、港湾に入るや否や、積載した車の降車版を下ろし始めます。
さて渡し場のアジア側チャナッカレからトロイまでは約30km、車で1時間足らずです。トロイ遺跡は海岸から5~6kmほど離れたヒッサリクの丘にあり、見下ろす平野は広々とした田園になっています。しかし古代には海はもっと近くで、トロイも海峡を見張る重要な基地であったと思われます。
現在公開されている遺構は径200~300mほどの楕円形の敷地で、前3000年からローマ時代に至る年代毎に9層が確認されています。入口を入るとすぐにレプリカの木馬が置かれています。木造3階建ての大きな木馬で、階段を使って中に入ることもできるため、観光客の記念写真にうってつけの場所になっています。
ただこの木馬を作製した背景に、何らかの考古学的な証拠があったわけでもなく、単なる公園的オブジェとしての佇まいに失笑してしまいます。
遺跡敷地内は通路も案内板も整備されてよく管理されています。しかし世界的な名声のわりに、見応えのある際立った建築物がないので、訪問客からは「ガッカリ度の高い遺跡」として知られているようです。
大王は憧れのアキレウス墓に参拝に行くのですが、残念ながら墓の所在は分かっていません。そもそも現トロイが物語『イリアス』のトロイと同一なのかも不明で、同時に勇者アキレウスの実在性も不明です。
ただ『イリアス』が前8世紀にギリシアの詩人ホメロスによって書かれたこと、また前4世紀に大王がアジア第一歩を記した場所であること、アキレウス墓への参拝が史料として残っているので歴史的には面白い場所です。
トロイ遺跡もまた、そうした歴史を拾いながら散策する、通好みの場所なのかもしれません。
アレクサンドロスは本体とは別に小隊を率いて、小舟でこの辺りを渡ったといいます。当時はトロイ遺跡が海に面していたのですが、長い堆積作用で今でははるか遠くに海岸線が遠ざかりました。この砂浜へも車道を離れてザクザクと砂を踏んでやっと到着しました。
次はいよいよペルシア軍との初戦「グラニコス川の戦い」です。
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参照「図説アレクサンドロス大王」森谷公俊 /鈴木革 「アレクサンドロス大王東征記」アッリアノス