5. フィリピ遺跡 トラキア進軍 ギリシア

alexander アレクサンドロス大王

alexander’s journey phillipi greece アレクサンドロス大王の旅

紀元前4世紀、アレクサンドロス大王はペルシア討伐に出発。
ギリシアから中東、エジプトを巡り、中央アジアやインドにいたる旅です。
その旅を21世紀に復元、彼が見た風景を探します。

紀元前336年、古都ヴェルギナでの父王フィリッポス2世の非業の死によって、アレクサンドロス大王は弱冠20歳で王位を継承しました。
しかし圧倒的な存在感を持った父フィリッポス2世に比べて、あまりにも若くすべてが未知数の新王即位に対して、かねてから抑圧されていた他ポリスはじめ周辺国は不穏な動きを見せ始めます。
それを察した大王は父が締結したコリントス同盟(前338年)の再確認のため、すぐさまペロポーネソス半島を訪れました。

コリントス同盟とは、東の大帝国ペルシアに対抗すべく、フィリッポス2世がギリシアの全統帥権を諸都市に認めさせた重要な遺産でした。

コリントス ギリシア Corinth greece
コリントスのアポロン神殿

この大王の素早い行動と、王子時代の戦場における活躍もあって、諸都市は恐れをなし同盟の堅持を約束したのでした。

次に大王は、元々反抗的であったトラキア地方の討伐に向かいます。
マケドニアの北に位置した古代トラキアは現在のブルガリアにあたり、当時は野蛮な人間が棲む未知の世界として恐れられていました。

マケドニアとはロドピ山脈で分けられており、国土の中央には背骨のようなバルカン山脈が東西に連なっています。
現在は美しい田園が広がっていますが、かつては森林に覆われた原始の森で、蛮族といわれたトラキア人がマケドニアを悩ましていました。

エーゲ海周辺 赤印はアテネ、テッサロニキ、イスタンブール 紫印がフィリピ遺跡 薄赤がロドピ山脈

トラキア進軍の足跡として特定できるのは、父フィリッポス2世が建設した町フィリピで、「アッリアヌスの東征紀」に登場します。ちなみに記録としての大王伝はローマ時代の4作品があり、「アッリアヌスの東征紀」はもっとも有名であり本旅ブログのベースにもなっています。

フィリピはピリッポイとも呼ばれ、名前が示すように父フィリッポス2世が前356年に建設した都市です。その後もヨーロッパとアジアをつなぐ交通要衝として、ローマ時代にいたるまで「小ローマ」と呼ばれて栄えた町です。
当時は建設者を都市名にすることが多く、今後はアレクサンドロスの名前をつけた町がいくつか登場します。

フィリピ遺跡 ギリシア phillipi greece
フィリピ遺跡(世界遺産)全景

フィリピはトラキア対策とペルシア遠征のために築かれた基地で、現在はギリシア領ですが当時はマケドニアの最果てにありました。
遺跡は2016年に世界遺産になりましたが、訪問当時の2008年は広大な敷地にバスツァー客が点在するだけの静かな佇まいでした。ただ残存する構造物のほとんどがローマ時代のもので、この中から大王の痕跡を探すことは絶望的でした。

遺跡は町から離れた幹線道のそばにあり、東西南北がそれぞれ約400、300mの大きさです。
古代この辺りは沼地でだったそうで、これだけの都市を築いた叡智に感心します。

遺跡内を散策していると、思いがけず「パウロの牢獄」という遺構が目に入りました。

フィリピ遺跡 ギリシア phillipi greece
フィリピ遺跡 パウロの牢獄

パウロといえば有名な初期キリスト教の伝道者で、エーゲ海周辺で布教活動を行った聖人です。
訪問時は知らなかったのですが、後に調べるとフィリピ遺跡はキリスト教では有名な場所で、新約聖書にはパウロが市民に宛てた「フィリピの信徒への手紙」として残っています。

実際にパウロが訪れて宣教活動を行い、また牢獄に投獄された史実は確認されていません。
しかしマケドニア時代からほぼ400年にわたって、歴史の舞台で物語をつくったフィリピ遺跡の深さを、後々に知ることになり不明を恥ずるばかりでした。

次はトラキア、ブルガリアの旅です。

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参照「図説アレクサンドロス大王」森谷公俊 /鈴木革 「アレクサンドロス大王東征記」アッリアノス

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