travel egypt coptic red monastery & white monastery
ナイル川の中流にある古いキリスト教の遺跡を訪れました。場所は有名な古代エジプトの古都ルクソールの北西約130km、ナイル川西岸の町ソハーグ(sohag、ソハグ、ソーハーグ)です。
ナイルの町
「ナイルの賜物」といわれるように、エジプト文明はナイル流域の穀倉地帯によって育まれました。地図を俯瞰すると、地中海に注ぐ河口の三角州は上流(南)の首都カイロで一本にまとまっています。さらに上流へと緑の帯が続き、ルクソールを越えて古都アスワン近くまで繋がっています。
実際に車で走ると、流域の田園と集落は途切れることなく、細長いひとつの国が形成されていることが分かります。
そのなかに渡船や水運の要衝として町が点在しており、ソハーグもそのひとつで人口約20万人、エジプト20番目の都市です。一見、地味な地方都市ですが、ごちゃごちゃした街はなかなか賑わいを見せています。しかも歴史的に重要な町で、「知る人ぞ知る」という貴重な遺物が残っています。
一般にエジプトといえば、大ピラミッドや大神殿に代表される、つまり古代エジプト文明をイメージします。しかしその陰にあって、謎めいた初期キリスト教の歴史が脈々と息づいており、関係する多くの建築や史跡が残っています。
ソハーグはその中心のひとつで、国内最大のキリスト教徒の拠点です。詳しくは後述しますが、エジプトのキリスト教はコプト教と呼ばれ、カトリックやギリシア正教会などと同じキリスト教の一派です。
周知のように現在のエジプトはイスラム教の国で、人口約1億1千万の90%がイスラム教徒です。そして残りの約10%、1千万人以上がキリスト教徒で、ソハーグはその中心的な町として多くのコプト教会があります。しかもたいへん古い修道院が残っており、初期キリスト教の歴史を伝えています。
赤の修道院
市の西約8km、ナイル流域の河岸段丘の近くに残る5世紀の古い修道院です。外壁が赤味を帯びた焼成煉瓦で造られているため、通称「赤の修道院 The Red Monastery」と呼ばれています。和名は定着していないため「赤修道院、赤い修道院」との名称も散見されます。
キリスト教の修道院制度は、エジプトの砂漠で禁欲生活を送った3世紀の修道士アントニウスが始まりといわれています。また一般に世界最古の修道院は、エジプトのシナイ山にある聖カタリナ修道院とされていますが、こちらは6世紀前半の建築ですので、赤い修道院は事実上の世界最古のひとつといえます。
建物の大部分は12世紀に破壊されましたが、奇跡的に礼拝堂の内陣は破壊を免れて古い様式を保持しています。くわえて21世紀に大掛かりな修復作業が行われ、往年の色彩と輝きを取り戻した礼拝室は古代教会建築の秀逸な見本となっています。
礼拝室に入った瞬間、あまりの美しさに息を呑みます。見事な修復作業によって、緻密な壁画は往年の色彩とディテールを取り戻して見学者をくぎ付けにします。この美しさは言葉を重ねるより、どうか写真にてご確認ください。
白の修道院
ソハーグにはもう一カ所、必見の古代修道院があります。同じく西岸河岸段丘の近く、赤の修道院から南東4kmほどの距離です。こちらは外壁の一部が石灰岩で造られているので「The White Monastery」と呼ばれています。赤の修道院より少し早い紀元440年頃の建設とみられ、やはり世界最古の修道院のひとつといえます。
河岸段丘のふもとといっても周囲は砂漠で、いかにも人里離れた隠修士(孤独な生活を送る修道士)の棲み処という場所です。
赤の修道院と同じく、礼拝堂の内陣は古い様式が残されており見応えがあります。一方、完全に破壊された聖堂ホールは現在修復中で、残念ながら立ち入り禁止でした。
創建から1600年近くを経て、歴史の変遷に伴う幾多の破壊や再生を越えて、こうして現存している二つの修道院は、まさに奇跡的な存在というよりほかありません。
ソハーグはじめナイル中流域のコプト地域は、初期キリスト教の聖域として脈々と生き残ってきました。
赤の修道院、白の修道院は最古の証人として、歴史大国エジプトのもう一つの表情を見せています。
コプト正教会
現エジプトはイスラム教の国ですが、実は1世紀(42年頃?)に4つの正典福音書のひとつ「マルコによる福音書」の執筆者マルコが、ナイル河口のアレクサンドリアに教会を建てたことを起源として、2~3世紀ごろにキリスト教が広まったといわれます(「マルコ起源」は諸説あり)。
その後もローマ帝国とビザンツ帝国のもとでキリスト教は発展して、7世紀のイスラム化まではエジプトの支配的な宗教でした。もともと「コプト」とは、古代ギリシア人がエジプトを指した言葉ですが、後代のイスラム教徒がキリスト教を堅持する人々を指して、「コプト(キプト)、つまりエジプト」と呼んだことからコプト教の名が始まります。
キリスト教が始まったローマ時代、地中海の学術都市アレクサンドリアは、ローマとシリアのアンティオキアと並ぶキリスト教の中心地でした。余談ですが、同市にはインドのアショカ王が派遣した仏教教団まであったといい、国際都市としての繁栄ぶりはたいへんなものだったようです。
しかし世界に広がったキリスト教は、各地の教会における教義解釈に違いが生じ、その調整のため5世紀に各教会を集めた公会議が開催されました。その公会議の決定によって、コプト教会は異端のレッテルを貼られたのです。むろん正統派はローマ・カソリックをはじめとする一群の西方教会などです。
他方で、中世以降に世界に拡大した正統派教会が、その普及先で土着文化の色合いを映し出したことに対し、ナイルという閉鎖的な地域で生き抜いたコプト教は、時代の変化を受けつつもその根幹は堅持されてきました。しかもそもそも地理的に故地であるイスラエルに近いため、一部の研究者は初期キリスト教会の色彩をより濃く残していると主張します。
ほぼ二千年に及ぶエジプトのキリスト教は、国内の少数派として、またキリスト教世界の少数派として、実に不思議で奥深い歴史を歩んできました。エジプト文明の陰にありながら、実はキリスト教文化の古き色彩を残すコプト教は、もっと陽の当たる位置に立つべきではないでしょうか。
残念ながら紙幅が尽きましたので、また別の機会にコプト教のご紹介をしたいと思います。
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