alexander’s journey granicus turkey アレクサンドロス大王の東征
前4世紀、アレクサンドロス大王はペルシア討伐に出発
中東を経てからインドにいたる旅を21世紀に歩きます
前334年5月。アレクサンドロス大王はダーダネルス海峡を渡り、アジア第一歩を伝説のトロイとして、勇者アキレウスの墓にてペルシア討伐の勝利祈願をしました。
その後、アジア側を海峡に沿って北東へ進み、途中でパルメニオン将軍率いるギリシア本隊と合流、マルマラ海南縁を東進して宿営地に全軍を集結させました。
他方ギリシア軍を待ち受けるペルシア軍は、ゼレイア市(現サルキョイ)に大軍を集結していました。ペルシア軍の指揮は複数の地元ペルシア総督と、ギリシア傭兵隊率いるロードス島のメムノン将軍でした。メムノンは後にペルシア司令官に任命された優秀な軍人で、アレクサンドロスとも幾度か合戦でまみえる重要人物です。
東へ向かうギリシア軍と西進したペルシア軍は、小さなグラニコス川を挟んで対峙しました。記録によると東岸ペルシア軍が15,000人、西岸マケドニア軍が18100人といいます。
グラニコス川は小アジア西北部の山中から発して、東北に流れてマルマラ海に注ぐ川で、現ビガ川に比定されています。両軍が対峙した場所は分かりませんが、中下流域の町ビガ近郊であると伝えられています。この周辺はビガ川の堆積平野でマルマラ海まで広がっています。
実際の合戦地は不明で、土地が砂の堆積であるため頻繁に流れを変えたと思われ、当時の流路も不明です。
さて両軍のにらみ合いのなか、パルメニオン将軍はアレクサンドロスに翌朝の総攻撃を提案、ひとまず夜営を勧めました。しかし大王は『ダーダネルス海峡でさえ簡単に渡ったのに、こんなケチな流れが我々の妨げになるとは、なんとも恥辱だ』と答えて、自ら先陣を切って川に飛び込みました。
この無鉄砲なスピード感こそが若きアレクサンドロスの真骨頂で、確かに敵軍を圧倒しましたが、実は自らの命も危険にさらし、この合戦でも幼馴染のクレイストスが間一髪で助けています。後々もこのような浅慮のため、自らを危険にさらす場面が幾度もあります。
参照「図説アレクサンドロス大王」P24 森谷公俊 /鈴木革
しかしこの合戦はギリシアの大勝利で、ペルシア軍は早々と敗走しました。記録ではペルシア側の死者が1000人、ギリシア側が100人です。ペルシア敗北の要因に、本国から遠く離れた地域での「寄せ集め部隊」であったことが挙げられます。またここに至るまで戦闘続きのマケドニア軍と、長らく帝国の威光のもと勘が鈍ったペルシア軍との違いが出たのかもしれません。
マケドニア軍とペルシア軍の事実上の初戦である「グラニコス川の合戦」は、東征紀の三大合戦のひとつに数えられています。ちなみに他二つは、時系列で、現トルコ南東部での「イッソスの戦い」、現イラク北部での「ガウガメラの戦い」です。この三大合戦は歴史的な戦闘であり、数々の記録と考察が溢れかえっています。
実際にグラニコス川を目前にするとその流れの小ささに驚きます。周辺を探しても歴史的合戦に相応しい場所は見当たらず、幅20~30m、高さ数mの段丘に挟まれた砂地の小川が続くだけです。確かに大王が語ったとおりの「けちくさい川」でした。
繰り返しになりますが、グラニコス合戦は歴史的な戦いで、多数の記録と検証が溢れ興味深い場所です。しかし、この21世の旅では、「がっかりな有名地」として紹介するに留めます。
次は意外に素敵な旧都サルディス遺跡に訪れます。
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参照「図説アレクサンドロス大王」森谷公俊 /鈴木革 「アレクサンドロス大王東征記」アッリアノス
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