alexander’s journey dion greece アレクサンドロス大王の東征
紀元前4世紀、アレクサンドロス大王はペルシアの討伐に出ました。
ギリシアから中東、エジプトを巡り、中央アジアやインドにいたる旅です。
その旅を21世紀に復元して、彼が見た風景を探します。
アレクサンドロス大王は王位継承(BC336年)から2年間、不穏な動きを見せたギリシア国内と周辺国の平定に悩殺されました。
そして紀元前334年春、父フィリッポス2世以来の念願であったペルシア討伐に出陣します。この東方遠征にあたり、全軍を集めて9日間に及ぶ盛大なスポーツ祭典を催したのがディオンでした。
ディオンはオリュンポス山の東麓に開けた古代マケドニアの聖地です。ギリシアの最高峰オリュンポス山(標高2917m)は神々の住いとして、マケドニアのみならず全ギリシア(全世界)に知れわたっています。
その聖山を仰ぐディオンは150ヘクタール(遺跡公園)に及ぶ広さで、紀元前5世紀末にマケドニア王アルケラオス1世によって整備されました。アルケラオスはオリュンピアの祭典(現代オリンピック)を倣って、新たに祭典を始めるためにディオンを改修したのです。
その後はマケドニアの台頭にあわせて神聖な軍事拠点として敬われ、出陣の際には大きな祭典が催されました。
ディオンには2回訪れましたがいずれも5~6月の春で、遺跡内には無数のオレンジ色や赤いポピーが風に揺れていました。崩れた遺跡と草花の風景は、まさに芭蕉の「兵どもが夢の跡」です。
残念なことに2度の訪問ともに、オリュンポス山は雲に覆われていました。快晴であればさぞ神々しい風景だったでしょう。
遺跡は急いで回っても、ゆっくり半日かかります。ギリシア時代の遺跡としては状態が良く、各地区に見応えのある建築が残っています。
交通不便のためか観光客は少なく、遠くに人影が点在するだけでほぼ独り占めです。好きなところに座り、空想にふける楽しい時間です。ここで数万の兵が整列して、オリュンポスをバックに喊声を上げる。そんな光景が頭に浮かびます。
ここで大東征にいたった背景として、前5世紀頃の世界を一度振り返ってみます。
当時、世界最大の勢力を誇ったアケメネス朝ペルシアは、紀元前6世紀にイラン高原から興った王朝で、ダレイオス1世(BC522-486在位)の時代に、東のインド・中央アジアから西の現トルコの小アジア、そして南はエジプトに至る広大な勢力をもっていました。
したがって小アジアのギリシア諸都市もペルシアの支配下にあり、紀元前5世紀前半には2回にわたりギリシア本土も侵略を受けました。これが有名なペルシア戦争です。
第1回は前490年(ダレイオス1世)で、「マラトンの戦い」でギリシアが勝利しました。このときアテネまで走った勝利の伝令が、マラソン競技のルーツといわれています。そして第2回が前480-479年で、ペルシアは200隻の大艦隊を派遣しました。アテネも大きな被害を受けましたが、かろうじてギリシアが勝利しました。
この侵略戦争への報復を目的として、マケドニアのフィリッポス2世がペルシア遠征を計画、それをアレクサンドロスが引き継ぐことになります。
アレクサンドロス大東征の背景には、200年近いペルシアとの確執があったのです。
次回から、いよいよトルコの旅です。
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参照「図説アレクサンドロス大王」森谷公俊 /鈴木革 「アレクサンドロス大王東征記」アッリアノス
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