alexander’s journey danube bulgaria アレクサンドロス大王の旅
紀元前4世紀、アレクサンドロス大王はペルシアの討伐に出ました。
ギリシアから中東、エジプトを巡り、中央アジアやインドにいたる旅です。
その旅を21世紀に復元して、彼が見た風景を探します。
紀元前335年。トラキア討伐のため北進するアレクサンドロス大王とマケドニア軍は、険しいバルカン山脈の隘路を進みました。正確なルートは不明ですが、東西530kmのバルカン山脈はその幅も15~30kmもあるのでたいへんな行軍だったに違いありません。
下図にこれまでのルート概略を示します。
マケドニア(現ギリシア、テッサロニキ近く)を出発、紫丸印フィリピ遺跡(現ギリシア)を経て、青文字「バルカン山脈(ブルガリア)」を越えて、ドナウ川を目指す。ドナウ川は現ブルガリアとルーマニアの国境。
史料には『山頂ではトラキア系民族が待ち伏せしており、彼らは荷車を連ねて防壁とし、また状況によってはその荷車を逆さ落しにしようと構えていた』とあります。古代史料は従軍記録が元ですから、戦闘シーンは活き活きと詳しく描かれています。攻め上るマケドニア軍は「荷車の逆さ落し攻撃」を難なくかわして勝利しましたが、トラキア側の死者は1500人と激しい戦闘を物語っています。
さらに北進するマケドニア軍は、ドナウ川の行程3日ほど手前の、リュギノス河畔(場所不詳)にて戦闘を行いました。これも史料に詳しく、敵軍3000名の死亡が記録されています。
ドナウ流域に広がるドナウ平原にも大きなトラキア墓があります。世界遺産に指定されている「シュベシュタリのトラキア人の墓」です。この辺りは起伏が美しく重なる田園地帯で、ドナウ水系の恵みを象徴するような場所です。
1982年に牧草地から見つかった墓は、見事な内部構造と装飾を持っており、トラキア文化の芸術性の高さを伝える重要な遺構です。
アクセスの不便さが禍して、いや幸いしたというのが正しいでしょうか、静かで美しい世界遺産です。眩いばかりのドナウ平原と古代ロマンのコントラストは一見の価値ありです。なお墓は紀元前3世紀ごろのものと見られ、まさしく大王の時代に近いので興味が尽きません。
リュギノス河畔の戦闘から3日後に、マケドニア軍はドナウ川に到着しました。
ドイツに端を発して東に流れ、2860kmを経て黒海に注ぐヨーロッパ第2の大河です。現在、流域には8ヶ国が並び、ブルガリアの国土の北限、ルーマニアとの国境になっています。
史料によればマケドニア軍は、ドナウ川対岸に待ち構える敵を目指し、父フィリッポス2世もなしえなかった渡河を試みます。それは舟のほかに、テント用の皮布に干し草を詰めて浮き袋にする方法です。この浮き袋作戦は後の東征でも、大河の渡河にたびたび利用されています。ドナウ川の戦闘もマケドニア軍の勝利に終わり、敵ははるか後方へ逃亡しました。
ドナウの渡河点も不明ですが、国境の町ルセを訪れてみました。ルセはドナウ川の水運基地となる国際港で、川岸には大きな船が停泊しています。古来ドナウ川は水運の動脈であり、1000トン級の船舶が黒海からドイツまで遡上することができ、逆に下流へ地中海まで繋がる重要な水路です。
ルセ付近の川幅は1kmに満たないので、対岸のルーマニアが間近に見えます。国境としての緊張感はなく、川面もゆったりと流れているいるようです。しかし、この大河を皮の浮き袋で渡るという無謀なアイデアには、やはりあきれ返るしかありません。
この後も大王と軍は、トラキア討伐のためマケドニアの西部辺境にて緒戦を戦い、さらには再び南下してギリシアの離反都市であるテーベの制圧に向かいます。
次はいよいよペルシア討伐の出陣です。
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参照「図説アレクサンドロス大王」森谷公俊 /鈴木革 「アレクサンドロス大王東征記」アッリアノス
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