travel laos plain of jars/giant in folklore
東南アジアの内陸国ラオスの辺境に、「アジア最後、最大の謎」といわれる古代遺跡があります。
世界遺産「ジャール平原」、英語では「Plain of Jars」、すなわち「壷の平原」です。
遺跡はまさに名前通り。大量の巨大な石壷が開口部をポッカリと天に向けて、なかには横倒しや割れた個体も混じり、不思議な気配を漂わせています。しかも一様に激しく苔むしていて、場所に流れた途方もない時間がうかがえます。
場所はラオス北西部、キノコ状の国土の傘部分にあたる高原地帯に位置します。ここは標高1000ⅿほどのシェンクワン高原で、付近一帯におよそ100ヶ所の遺跡が点在、それぞれ数個~400個、総数なんと2100を越える巨大石壺が残されています。
これら石壺は砂岩を粗削りしたもので、高さが1~3mほど、最大級では重量20~30トンに及ぶ巨大な代物です。
巨人伝説
「アジア最後、最大の謎」といわれる所以は、「いつ?誰が?何の目的で?如何にして?石壺を制作、設置したのか」という点に尽きます。結論からいうと、もっともよく答えているのが地元の伝説かもしれません?!
『かつてこの地に巨人族が住んでおり、Khun Cheung(クン・チュン)という王が長らく敵と戦って勝利を収めた。その勝利を祝うため大量のラオラオ酒を造り、保存するたくさんの石壺を造った』
ラオラオとはコメを原料とする強い蒸留酒で、沖縄の泡盛のルーツともいわれる古いお酒です。ちなみに蒸留酒は紀元前3000年のメソポタミアが起源で、ラオラオの原料コメはインド~ラオスで紀元前1800年の化石が見つかっています。
上写真:ジャール平原全体で唯一彫刻がなされた壷 「フロッグマン」と呼ばれる
むろんラオス史を検証しても、Khun Cheung王や巨人族も見つけることはできません。したがって「たんなる伝説」と一笑に付してしまえばそれまでですが、実は近年の先端考古学調査から、これまでの定説に疑義が生じ、ジャール平原の謎はあらためて混迷を深めています。
考古学調査と不発弾
ジャール平原の最初の考古学調査は1930年代、フランスの女性学者コラーニによります。女史は発掘調査にて埋葬跡などを発見、石壺遺跡は紀元前500年~紀元後500年、鉄器時代の埋葬地であると発表しました。
しかしその後、高原には不幸な歴史が続きます。まず1953年にラオスはフランス植民地から独立したものの、国内は諸勢力が対立して混乱を極めました。さらに1964年~1973年のベトナム戦争では、隣国であるラオスも隠れた激戦地となって、米軍による史上最多の58万回の空爆を受け、クラスター爆弾を含む8千万発が不発弾となって大地を汚染したのです。その最も被害が激しかったのがシエンクワーン高原でした。
この悲惨な戦争被害が、ジャール平原の学術調査や観光に立ち塞がったまま現在に至っています。一応、1990年代に考古学調査が再開されましたが、コラーニの推定年代を修正しつつも埋葬地論は追認され、石壺遺跡の定説となっていました。
不発弾:街には不発弾を集めた博物館があるが、そのおびただしい数はこのように日常に溶け込んでいる
最新鋭の考古学調査
2021年、オーストラリア隊による大がかりな考古学調査の中間報告が公表されました。そこには従来の定説を揺るがしかねない画期的な発見がありました。詳細は省きますが、この調査では石壺石材の設置年代を直接測定する先端技術が含まれています。
その結果。
1.石壺の設置時期は大幅に見直され、紀元前2千年紀後半のより早い段階
2.一方、周囲の埋葬痕は紀元後8~13世紀のまったく新しい時代
つまり、埋葬痕は石壺設置から2千年近くも後の時代であること、したがって石壺本来の設置目的が再び不明になってしまいました。また同時に、壷制作時代における金属器の使用は現状認められないため、制作法について新たな謎が浮彫りになりました。
次に、
3.石壺の成分分析から、原材料の石切場が8kmも離れた険しい山中と判明
これによって、遠隔地からの巨石運搬法についての疑問が生じました。
上写真:サイト3の周囲はのどかな田園風景だが、こうした道の左右は不発弾の未処理地帯で進入禁止。このように戦争の名残が考古学調査と観光の障害になっている。
アジア最後、最大の謎
以上から、冒頭の謎について新評価をまとめてみます。
いつ?=紀元前2千年紀後半の早い段階
誰が?=当時在住の民族は不明(民族移動の複雑さとモザイク状の山岳地の多様な民族)
目的?=埋葬地論の再考
如何に?=製造・運搬ともに不明
いかがでしょうか?
「アジア最後、最大の謎」は、先端技術の考古学調査によって、再び深い迷宮に入った感があります。少々乱暴ですが「謎の巨人族による酒壷伝説」が、逆に現実味を帯びてきたような気さえしませんか?
願わくは、早くこの地の不発弾処理が終わり、安全かつ自由に考古学調査が行われ、ロマン溢れる巨石壷の正体にもう少しヒントが欲しいものです。
参照:下記サイトに考古学調査の内容や、歴史について詳しい記事が載っています。
webムー https://web-mu.jp/history/38254/
本誌:月刊ムー2024年4月号
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